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釜山に人類が住んだ痕跡は旧石器時代までさかのぼります。このような事実は、海雲台の佐(ジャ)洞・中(ジュン)洞の旧石器遺跡の発掘と、青沙浦(チォンサポ)山麓で収集された遺物から確認することができます。しかし、今まで出土した先史時代の遺跡と遺物は、ほとんど新石器時代から集中的に現われています。

釜山の新石器時代の遺跡は貝塚が大部分で、このような事実は東三(ドンサム)洞・瀛仙(ヨンソン)洞・多大(ダデ)洞・岩南(アムナム)洞・金谷(グムゴク)洞・凡方(ボムバン)洞などの貝塚の遺跡が調査された代表的な遺跡です。これら貝塚は、全て川辺や海辺に位置しており、当時の漁労採集中心の生活の断面を推し量ることができます。特に韓国の南海岸地方の新石器文化は、釜山地域を中心に形成され、日本の北九州地域の新石器文化に大きな影響を与えました。

釜山の青銅器文化は、韓半島の東南端に位置した地理的与件から、後期青銅器文化が中心を成しています。この時期の遺跡と遺物としては久瑞(グソ)洞・長箭(ジャンジョン)洞・社稷(サジク)洞・槐亭(グェジョン)洞・盤如洞(バンヨ)洞・老圃(ノポ)洞など、主に釜山の内陸丘陵地帯に位置しています。釜山地域の青銅器文化は、無紋土器を基盤にしたもので,釜山の地勢が現今のような地形に整えられた時期であり、日本の弥生文化の発生に大きな影響を与えました。

三韓、伽耶、三国初期にあたる釜山の鉄器時代の遺跡は、貝塚と古墳が主流を成しており、貝塚は鳥島(ジョド)・瀛仙(ヨンソン)洞の貝塚上層、多大(ダデ)洞の貝塚上層、槐亭(グェジョン)洞、東莱(ドンレ)楽民(ナクミン)洞などにあり、古墳は五倫(オリュン)洞、槐亭(グェジョン)洞、華明(ファミョン)洞、錦糸(グムサ)洞、福泉(ボクチョン)洞などに分布しています。特に釜山地域の古墳は、この時期の他の地域の古墳に比べて、鉄器の遺物が圧倒的に多いが、これは東莱の貝塚から発見された鉄を製錬する冶鉄趾の存在と共にこの地域が古くから鉄の生産の中心地であったと推測され、ここで製錬された鉄は水営江(スヨンガン)を介して倭、楽浪、帯方等の地に輸出されたということが、中国の三国志の魏書東夷伝の記録でも確認できます。特に注目されるのは、この時期以後、釜山地域の政治的中心が、水営江(スヨンガン)と温泉川(オンチョンチョン)を中心に発達し、歴史的変遷を成し遂げたという事実です。

限定的ですが、文献的考察が可能な三韓、伽耶、新羅時代のうち、三韓時代の釜山地域は、居漆(ゴチル)山国、涜廬(ドンノ)国などの小国分立状態で勢力圏を形成していました。特に新羅が伽耶を併合した6世紀中葉以後、釜山地方は居漆山国を居漆山郡と、景徳王(ギョンドクワン)16年(757)には、居漆山郡を東莱県と名を変え、歴書の記録に東莱が初めて登場するようになり、大甑県を東平(ドンピョン)県に名称を変え、東莱県の領県としました。一方、以前の甲火良谷(カプファリャンゴク)県は機張(ギジャン)県に名を変えて、東莱郡の属県に編入されました。

高麗時代の釜山地域は新羅の地方制度を受け継ぎ、中期(仁宗(インジョン)代)東莱(ドンレ)の鄭(ジョン)氏の家門が中央政治の舞台に頭角を現して、新しい転機を迎えましたが、中央政治の権勢掌握の葛藤と謀略で、鄭敍(ジョンソ)が東莱に都落ちしました。鄭敍は、そこに東屋(瓜亭)を建てて、忠節と節義を詠った鄭瓜亭曲を残しました。この鄭瓜亭曲は、高麗文学の最高作品に数えられており、釜山文学のルーツとも言えるものです。一方、高麗末に倭寇が日本幕府政権の交代期に乗じてさらに猛威を振るうようになり、釜山地域の軍事的重要性が強調されて邑城を築き兵士を駐屯させました。

朝鮮時代になると、太祖(テジョ)代に兵馬使鎭を新設し、太宗時には釜山浦に対日交易場を設置(1470年)することで、朝鮮と日本間の公式的な貿易の場が開設されました。一方、釜山の国防上・外交上の重要性が一層強調されると、壬辰倭乱(文祿・慶長の役)直前には、堂上官が東莱府使に任命されました。1592年の壬辰倭乱は、両国交流の位置づけを新たに確立するきっかけになり、壬辰倭乱後、新しく整備された善隣友好関係は、通信使と日本国王使間の象徴的交流体系を確立しつつ、両国の交流が体系化されていきました。このような朝鮮後期の対日交流は釜山にあった草梁倭館を唯一の窓口として当時両国間の交流はもちろん、ユーラシア大陸と南方諸国の海洋文物を中継する仲介貿易地としての位置づけを確かにしました。
一方、壬辰倭乱の時、釜山地域の民・官・軍が見せた救国抗争の救国衷情は、今日にいたるまで綿々と引き継がれ、救国と正義を躬行実践する市民精神へと昇華する大きな柱になっています。

19世紀の帝国主義勢力の無差別膨脹政策に便乗した日本帝国主義者の韓半島及び大陸強制占領の野欲が跋扈する時期にも、国権回復のための釜山地域民の抗争は、他のどの地域よりも激しく、これは憂国志士はもちろんのこと埠頭労働者、学生、芸妓にいたるまで抗争に参加した事実が当時の 市民の抗日活動を如実に代弁しています。
しかし、日帝は大陸侵略の目的を達成するため橋頭堡として釜山を積極的に利用し、釜山の都市発展と社会構造を跛行的、奇形的に歪曲変形を加速化しました。

1945年8月の光復(解放)!
釜山は帰国同胞を温かく迎える上陸地に定着し、1950年6月の韓国動乱期には、国権守護の最後の堡塁として臨時首都の役割を果たしました。その後1963年1月に、政府直轄市、1995年1月には広域市になりました。
釜山は1950年代から1980年代まで経済復興と民主化のメッカとしての牽引車役割を果たしましたが、1990年代後半の経済危機は、釜山市民の底力を発揮し、暗く長いトンネルを抜けて新しい跳躍を試図、経済的復興と共に市民情緒の先進化を確かにする文化都市釜山の真の姿を定立しようと市民の知恵を結集しています。

因みに釜山文化の基盤造成事業の中で歴史分野の展示施設を中心に簡単に紹介しますと、釜山博物館、東三(ドンサン)洞貝塚展示館、福泉(ボクチョン)博物館、忠烈祠(チュンリョルサ)、水営25義勇壇(ウィヨンダン)、釜山近代歴史館(2002年7月開館)、白山(ベクサン)記念館、釜山民主抗争記念館、民俗芸術伝授館(3ヵ所)などと、国立釜山国楽院設置及び主要人物の記念館、銅像、歴史遺跡地の標石碑の設置などを持続的に進めています。
 
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